「そして父になる」



 (ネタバレあります)
 『誰も知らない』の是枝裕和監督の最新作とあれば、何をおいても映画館に行かなければ、そんな思いで観た。病院で息子を取り違えられた夫婦が、子どもを相手の親に戻し、実の子どもを引き取って育てようとする中、親としての責任や自覚を獲得していく。出演は福山雅治尾野真千子真木よう子リリー・フランキー。第66回カンヌ映画祭で審査員賞を受賞。


 出産直後に看護師によって男児を取り違えられた二組の夫婦が出会う。二組の夫婦は対照的だ。片方は裕福なエリートサラリーマン(福山)、もう片方は貧乏そうな古びた電機屋(フランキー)。福山は、子供にルールを課し、突き放す。子供との距離のとり方がどこか冷淡である。対するリリー・フランキーは、子どもといっしょに遊び、子供目線でコミュニケーションを頻繁に取る。


 後半、二組の夫婦は、取り違えられた子どもを交換するのだが、福山側はうまくいかない。父親然としてふるまおうとする福山を、実の子どもは拒絶する。そこで福山は悩むのだが、オイラには、このあたり、映画の終盤の描写が少々甘いように思う。物憂げに思いにひたる福山雅治、といったシーンが何枚か重ねられるが、オイラでも思わずうっとりしてしまうようなフォトジェニックなシーンは、ドラマとしては夾雑物だ。福山が本気で悩み、親子がお互いに心を開いていくプロセスを、もう少し丁寧に描かないと、ラストへの展開が少々図式的に見える。


 単に子どもに対する接し方だけでなく、仕事の仕方とか、配偶者や親、親戚に対する接し方とか、くたびれかたとか、力の抜け方とか、たたずまいそのものが、父になると微妙に変化していくような気がする。その点、この映画の福山雅治は「変わらなさすぎる」。確かに、少し子どもと遊ぶようになったかも知れない。だが、かっこよすぎる。父親修業がまだまだ足りない、そんなふうに思える。


 話は変わるが、福山が父になれない遠因を、父親(夏八木勲!)との関係にあることを示唆するドラマ構造は、秀逸だと思う。父親からの愛情を、子供時代にうまく学習できないと、自身も父親になれない。私事で恐縮だが、オイラ自身も突き放されて育ったことが遠因で、家庭を築く気になれず、なかなか父親になることができなかった。ドラマの中の福山と夏八木勲の父子関係は、まさにオイラの父子関係でもある。


 終盤、リリー・フランキーの妻を演じる真木よう子が、交換されて不安に思う子どもを、ぐっと抱き締める場面がある。母親の愛情がストレートに子どもに伝わる瞬間を、映画は長回しで映しとる。ぐっと抱きしめるだけで母親は母親になれることを、この場面はさりげなく示してくれる。子どもは母親の「身体」を一度くぐってきた。男はこうはいかない。「父になる」ことの方が、実は困難なのかも知れない。


週刊文春 2013年 10/3号 [雑誌]

週刊文春 2013年 10/3号 [雑誌]


 週刊文春2013年10月3日号に「モデルとなった人が映画に違和感」という記事が掲載されたが、映画は事実をそのまま写し取るものではないし、モデルになった方々も、そのことはわかっていて「別物」とおっしゃっているわけだから、とりたてて騒ぐ必要があるのかオイラにはわからない。