吉田道雄「またあしたっ」評(全文掲載)



 「またあしたっ」の感想をお送りすると申しておきながら、随分時間が経ってしまいました。申し訳ございません。部員たちに意見を聞くこともかなわず、私個人の意見のみですが、以下に忌憚無く記したいと思います。若輩者の妄言をどうかご容赦ください。


 「徳島県高校演劇活動誌」と銘打たれた「ホリゾントNO.2」(1998年)誌上において古田先生は、《やかましい『静かな演劇』》という言葉を口にされています。これは直接的には、「白の揺れる場所」の全国大会上演の反省点をふまえ、「静かな演劇」でも、家族同士という人物設定を活かすことで、大きなホールに合わせて「やかましく」声を出せる、といった趣旨でのご発言だと思います。つまり、「鈴虫のこえ、宵のホタル」上演に際しての、きわめて具体的な演出方針を説明するための言葉ですが、私には、この《やかましい『静かな演劇』》という言葉が、少なくとも私が観た範囲の古田作品のほぼ全てに当てはまる特徴のように思えるのです。


 つまり、「白の揺れる場所」以後の古田作品には、既成・創作の別なく、「具象」と「抽象」、「写実性」と「幻想性」、「静かさ(市民社会的な公共性)」と「やかましさ(前近代的な祝祭性)」といった、一見相反する要素を常に同居させようとする明確な志向が見えます。今回の「またあしたっ」は、それが最も成功した作品だと思います(この場合の「成功」とは、観客に違和感を与えないという意味において、です)。屹立する抽象的な黒柱(パネル)と、時計・ぞうきんがけ・机・椅子という具象物との取り合わせが自然でした。そして何よりも衣装が秀逸でした。現在の高校を舞台にしながら、高校生たちが身につけているものはロング・スカートにペッタンコの学生カバンという昔懐かしい「スケバン」スタイル。しかもそれが、不思議に違和感を感じさせることなく、むしろ非常に活き活きとした高校生の姿を伝えてくれました。


 古田先生は、おそらく西村先生の「フィクションとは何か」という問題提起を受けて、「フィクショナルな高校生像を作りたい」とブログ上に書かれていましたが、それが見事に実現されていることに感服しました。俗論では「元気が無くなった」などとも言われる現在の高校生たちにも、かつての「スケバン」の時代のようなパワフルさは内在している。つまり、高校生の潜在能力は今も昔もそう変わらないはずだ。では変化したものは何か。その高校生の潜在能力を発現させていないものは何か、という問いに必然的にたどり着くことになるのです。これがいわゆる「フィクション」の力だと思います。私は「フィクション」という言葉よりも「リアリズム」という言葉を用いたいのですが、いずれにしろ、平板で紋切り型の現実把握を覆そうとする批評性を指す言葉だと私は理解しています(もちろん私が「リアリズム」と言う際には、目に見える平板な現実の再現に終始する自然主義への批評と、これまで看過されてきた現実の指摘を含む表現のことを指しています)。


 古田先生は、高校・大学段階での学び直しであるリメディアル教育について、社会制度上の問題として具体的に提案されており、私もそれに賛成しますが、しかしやはり、舞台上で生々しく「教育から置き去りにされた高校生」たちが目の前に現れることの衝撃こそが、そのような社会問題の改善の原動力となるものでしょう。それは、芸術が政治や社会問題改善の道具になるということではありません。その反対に、優れた芸術こそが、その迫真性ゆえに、芸術上の感動とともに社会問題の改善の必要性を強く人々の胸に喚起するのではないでしょうか。しかも逆説的なことに、芸術の迫真性は、現実をより精密に、つまりカメラの画素数を上げるような形で描いても手に入るものではなく、演劇というフィクション装置を通してこそ得られるものであり、いわば目の前の現実を批評的に捉え直すことから生じる「リアリティー」=「迫真性」だと思うのです。このようなフィクショナルな高校生の迫真性こそがこの劇の眼目であると思います。


 台本に関して言うと、よくありがちな「ドラマ」=「対立・葛藤から和解に至るストーリー」という図式を採っていない点に、私は大変好印象を持ちました。それは例えば、嫌味な男性教員が実は食堂から焼きそばパンを買って職員室に置いてくれていたことを知った時の生徒達の反応に顕著でした。生徒達は、その事実を知ったからといって男性教員への見方を変えるわけではない。相変わらず「嫌味な奴だ」と思っている。それでいて、自分でも分からない内に、何かそれだけでは収まりがつかない事実が1つ、心の中に入って来た、という感じだと思うのです。その事を彼女達がしっかりと自覚し、認識するのはきっともう少し先でしょう。彼女達が社会に出て、色々と経験して、そして、その先生のことを客観視できるようになった時に、「いい先生」「いやな先生」といった平板な物の見方は消え、その先生のことを一人の人間として理解できるようになると思います。そのような想像の余地を残す、非常に抑制のきいた劇展開に好感を持ちました。


 また、そのような「対立から和解へ」という図式を採らない代わりに、ストーリーを進行させる動力として、説話論的・民話的図式を採用している点も、ちょっとした驚きでした。彼女達は今、進路決定を目前に控え、テストという試練の時を迎えている。そこで一時の避難所(アジール)として、雨降りの日の放課後の教室という場所は機能しています。そこへ、彼女達の勉強の遅滞を補うものとして、「焼きそばパン」が現れる。つまり、「焼きそばパンを食べる」ことが、まるでポパイのほうれん草のように機能して、ストーリーを進行させます。このような展開は、民話によく見られる「行きて帰りし物語」すなわち「旅立ちによる仮死(共同体からの離脱)、その過程での敵対者と協力者の存在や、その旅を経た後の再生(帰還)」という図式です。「焼きそばパン」はその中で、協力者が道中で主人公にしばしばもたらすアイテムの役割を果たすといえます。それゆえに、この劇で「焼きそばパン」はあれほどの力をもつように位置付けられたと言えます。・・・それにしても、あのラストのBGMの「焼きそばパンマン」のテーマソングは衝撃でした。あの曲をラストに持って来る勇気とセンスには、まさに脱帽でした。不思議なことに、かっこいいんですね、ああやって聴くと。


 以下、大変偉そうですが、若干の疑問を。
 この劇の難点は、その長所とも裏腹なのですが、やはり、この作品がもつ「楽天性」にあるといわざるを得ない部分があると思います。「楽天性」を集約したのが、タイトルの「またあしたっ」という言葉です。高校生達はラストで「またあしたっ」という言葉を口にして教室を去ります。これは本来希望の言葉として響かなければならない言葉です。私もそう感じたかった。しかし、私の心は半分しか動きませんでした。もう半分の私の心には「先送り体質」という言葉が浮かんでしまったのです。もちろん、これが制作者側の意図と異なることは承知しておりますが、心に浮かんだ事実を消し去ることはできません。私自身は、現状はもっと絶望的ではないかと考えています。もっと絶望した方がいいのではないかと。そのような絶望から全てを始めるべきではないかと。また、このような劇全体を貫く楽天的な調子は、リメディアル教育の必要性といった社会問題に関する訴求力も弱めてしまっているのではないかと思うのです。何だか主人公の3人の彼女達は、そのような施策が施されなくとも、健やかにたくましく生き抜いて行きそうな印象さえ与えてしまうのです。


 ・・・とはいえ、このような私の疑問は、私自身の問題意識をこの作品に無理矢理求めようとする「無い物ねだり」の類かもしれません。どうか若輩者の妄言ゆえ、ご寛恕ください。今後も色々とお教えいただければ幸いに存じます。失礼します。


                               海部高校 吉田道雄


追伸 
 「ホリゾントNO.2」、数年前に阿波高の部室で見つけて熟読しました。内容の充実ぶりに本当に驚かされました。徳島県高校演劇界の貴重な財産だと思います。私が演劇に関わっているのも結局は、あの本に充ち満ちているような「熱」を希求しているからです。到底及ばないまでも、私にできることは最大限努力しようと思わせてくれる大切な一冊です。


(ここまで)


「またあしたっ」最終報告
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111119/1322050228
「またあしたっ」中間報告
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111102/1320369788
タカギ カツヤ作「またあしたっ」
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111003/1318087285